アイ、アム、アイ

他でもない自分について

ジブン

 

 

最近、この時代っていうものもあって自分の性別についてよく考えている。性別というか、気持ち?うん、気持ちかも。小学5年生の時に、一人称が”俺”に変わった。当時、大好きだったアニメに驚くほど影響を受けて。そこから、中学卒業するまでは、家でも学校でも、誰の前でも一人称は”俺”のままだった。高校生になり、人や場所を選ぶようになった。教師や先輩の前では、”私”にするようにした。中学の教師にも言われたことや、自分でもなんとなく変えないといけない気がしたから、意識するようにした。それでも気の許す友人の前や家族の前では、一人称は変わらないままでいた。今では、すっかり”私”という一人称に慣れてはいるものの、時折ぽろっと零してしまう。しかし、あんなにしっくりきていた一人称が、今となっては少し違和感を感じる。だからといって、”私”に違和感がないかと言われればそれも違う気がする。

性別というのは、人間に生まれたからには必ず存在する。私は女である。今までもこれからも、生物学的に女であることは変わらないはずだ。しかし、自分のことを女の子だと思ったことはあまりない。自分が女の子であることが許せないとまで思っている。可愛いのために努力できないのに、可愛い女の子のことを妬んでいる自分は、性別以前に人間として終わっていると、本気で思っていた。今でも可愛くなりたいと思っている。次の日起きたら、パステルカラーの似合う女の子になってたらいいのにと思う。

これらの気持ちと同時に、自分が男の子だったらよかったのになとも思うことがある。可愛くて、好きな女の子の友達と一緒にいると、俺が男の子だったらきっとこの子を幸せにするだろうに、と本気で考えたりする。でも、男の子だったらこの子のこういう一面を知れないのかと思うと、女でよかったなとも思う。自分のなかで、常に男と女が混在して、混ざり合って、どっちにもなりたくて、どっちにもなりたくない。でも、最近はこういう考えを持った人も多くいることを知った。隠さなくてもいい時代なんだと思う。別に、自分はわざわざ誰かにいうわけでもないけど、こうやって文字に起こすことに罪悪感を持たない。

結局何が言いたいかというと、自分は自分というただ一人の個体だということ。2分の1なんかじゃなくて、1分の1。自分は自分でしかない。だから、ふわふわのスカートを見て、可愛いなって思うし、でも今世は着れないから来世で着ようってポジティブな気持ちで思えるし、女の子に特別優しくしても受け入れてもらいやすい性別を嬉しく思うし、こんな性格だから女でありながら男の子と友情を育めることにも感謝してる。ド派手なメンズファッションを愛してる。面倒くさいという理由で化粧はしないけど、推しに会いに行く時だったり、男の子と遊ぶときだけ赤いリップを引く自分を軽蔑しない。だからというわけじゃないけど、きっと自分は好きになる相手の性別は問わない。これまでは本能的に男性を求めることが多かったけど、でも別に性別は関係ないと思う。好きな人が好きだよ、自分は。

 

今日はこんな内容だから、あえて一人称を自分にしたけど、きっとこれからのブログは気分や日によって一人称を変えると思う。だからといって、なんの意味もなくて。女の子らしい自分も、男の子らしい自分も、それはつまり自分らしいということだから。

 

生きやすい世界かどうかなんて、主観でどうにでもなるわ!

 

ということで。またね。